靖国神社 平成二十一年 [東京風景]
靖国神社に行って来た。
昼頃行くと大混雑なので、夕方に行く事を計画。
半蔵門線に乗った。

(とにかく暑かった。)
九段下の駅はすでに警官だらけ。
田安門前の信号までの道のりは右翼、左翼、反中国の団体の主義•主張入り乱れてぐちゃぐちゃだ。
今年は特に、ウイグル関係やNHKの「シリーズ・JAPANデビュー」に対する署名演説が目立った。(あの番組は本当に酷かった。)
正午前後にはこの混乱は九段下の交差点から首都高のあたりまで続く。
上空にはどっかのTV局のヘリコプターがかなり五月蝿い。

(pm 4:30 この時間だと、本殿までスグ)
自身の勲闘が未来永劫、靖国神社に祀られると信じて(あるいわ信じさせられて)死んで行った兵士たちのことを考えたら、とうてい民主党が掲げる国立追悼施設などには賛成できない。
しかし、終戦記念日の靖国神社がこんなにもパフォーマンスの場として利用され、騒ぎ立てられ、東アジアの特定諸国の外交材料として利用されている現状を考えれば、戦死者を静かに追悼するという観点から致し方無しという気がする。
(だって、法輪功の連中がどうして靖国神社で活動するのだ?ウイグル人の人権と靖国神社が何の関係がある?)

(選挙が近いからって、参拝しない議員には絶対投票しない。)
靖んじて国に殉じゅるべしと言われて死んで行った兵士たちにはどんな救いがあったのだろうか?
『日本がこの戦に破れたりといえども、諸君の勲闘 に涙し黙祷を捧げる日が必ずや来るであろう。靖んじて国に殉ずるべし。世は常に諸氏の先頭にあり』
こんな風に言われて、死を強要され、唯一、後世の賞賛と将来の日本国の繁栄を信じて自分の死を受け入れるしかなかったのだと思う。
だから、やっぱり靖国神社には行くべきだと思う。
日本人だから。

かつて、ボストンに住んでいた事がある。
当時の研究室には韓国人や中国人、またはそれらからの移民の子孫たちが4割くらいだった。
米国でも、この時期になるとTime誌などで戦争のことがとりあげられていた。加えて、当時は小泉首相が参拝したり、Anti-Japaneseファイーバーがさかんで、チャイナタウンには近づきずらかった時代だが。
そんな時代だったが、身近で靖国を話題にしないのは不問律のようだった。
(ドイツ人、フランス人なんかはよく質問しにきていたが。)
しかし、今、現実のYASUKUNIはとてもうるさい。

(境内のまわりは、機動隊だらけ。)

(ときおり、靖国通りは緊急閉鎖)

(○時○分に、左翼が通過するから注意なんて話しがチラホラ聞こえた。)
そのあと、家まで徒歩で帰りました。
昼頃行くと大混雑なので、夕方に行く事を計画。
半蔵門線に乗った。
九段下の駅はすでに警官だらけ。
田安門前の信号までの道のりは右翼、左翼、反中国の団体の主義•主張入り乱れてぐちゃぐちゃだ。
今年は特に、ウイグル関係やNHKの「シリーズ・JAPANデビュー」に対する署名演説が目立った。(あの番組は本当に酷かった。)
正午前後にはこの混乱は九段下の交差点から首都高のあたりまで続く。
上空にはどっかのTV局のヘリコプターがかなり五月蝿い。

自身の勲闘が未来永劫、靖国神社に祀られると信じて(あるいわ信じさせられて)死んで行った兵士たちのことを考えたら、とうてい民主党が掲げる国立追悼施設などには賛成できない。
しかし、終戦記念日の靖国神社がこんなにもパフォーマンスの場として利用され、騒ぎ立てられ、東アジアの特定諸国の外交材料として利用されている現状を考えれば、戦死者を静かに追悼するという観点から致し方無しという気がする。
(だって、法輪功の連中がどうして靖国神社で活動するのだ?ウイグル人の人権と靖国神社が何の関係がある?)

(選挙が近いからって、参拝しない議員には絶対投票しない。)
靖んじて国に殉じゅるべしと言われて死んで行った兵士たちにはどんな救いがあったのだろうか?
『日本がこの戦に破れたりといえども、諸君の勲闘 に涙し黙祷を捧げる日が必ずや来るであろう。靖んじて国に殉ずるべし。世は常に諸氏の先頭にあり』
こんな風に言われて、死を強要され、唯一、後世の賞賛と将来の日本国の繁栄を信じて自分の死を受け入れるしかなかったのだと思う。
だから、やっぱり靖国神社には行くべきだと思う。
日本人だから。

かつて、ボストンに住んでいた事がある。
当時の研究室には韓国人や中国人、またはそれらからの移民の子孫たちが4割くらいだった。
米国でも、この時期になるとTime誌などで戦争のことがとりあげられていた。加えて、当時は小泉首相が参拝したり、Anti-Japaneseファイーバーがさかんで、チャイナタウンには近づきずらかった時代だが。
そんな時代だったが、身近で靖国を話題にしないのは不問律のようだった。
(ドイツ人、フランス人なんかはよく質問しにきていたが。)
しかし、今、現実のYASUKUNIはとてもうるさい。



そのあと、家まで徒歩で帰りました。
神田川が氾濫していた時代 [東京風景]
梅雨だ。
僕が子供の頃、神田川はよく氾濫していた。
この季節や台風の季節ともなれば。大雨のあとは必ず神田川から独特のサイレンが街中に鳴り響くのだ。
洪水警報サイレンを聴きながら寝るのはしょっちゅうだった。
昭和50年代後半のことである。
いま、神田川の流域のコンクリート被覆率は90%近いと言われている。
落合のあたりで水量が一気に増えた神田川は*高田馬場の渓谷で勢いを増すのだ。
神田川から数百メートル離れた早稲田通り付近に住んでいたので、家が浸水したことは無い。しかし、神田川へ下る道が滝のように激流になっていたのが瞼に焼き付いている。
洪水のあとに祖母と商店街で買い物に行くと、八百屋さんや本屋のさんが洪水やら浸水の話をしていた。昔はココまで来た。とか、誰それの家は浸水が酷かった。とか。
今、考えると、「本当かな?」とも思うのだが、嘘か本当かは別にして、みな昔のことを懐かしんで話していたのだろう。その感覚、わかる。
いまもそんな界隈の記憶は鮮明だが、当時の人々はもう10年以上も前に他界してしまっている。
そして、本屋も八百屋も玩具屋もコンビニやスーパーに変わった。

神田川が氾濫しなくなったのはいつごろからだろうか?
明確な記憶が無い。
ただ、小学校高学年にはすでに、サイレンの音を聴かなくなったと思う。
おそらく、環七下に大規模な放水路が建設されてからか?
まぁそんなことはどうでも良い。
たぶん、僕らが暴れ川「神田川」を記憶する最後の世代なんだと感じる最近である。
*高田馬場の渓谷
山手線高架下あたりは神田川でも随一の急流となっている。しかも、山手線橋梁は明治の頃に作られたこともあり、非常に狭隘になっている。(明治の頃の水量は流域のコンクリ被覆率が低いので少なかったと思われる。)
さらにその山手線の築堤がダムの働きをするので、流域はいつも水浸しであった。渓谷になっているので、築堤を超えた下流も一気に流れが緩やかとなり被害があった模様。今は、新目白通りの下に放水路があるので、高田馬場渓谷付近で川が氾濫する事は無い。

(都電、面影橋停留所)
僕が子供の頃、神田川はよく氾濫していた。
この季節や台風の季節ともなれば。大雨のあとは必ず神田川から独特のサイレンが街中に鳴り響くのだ。
洪水警報サイレンを聴きながら寝るのはしょっちゅうだった。
昭和50年代後半のことである。
いま、神田川の流域のコンクリート被覆率は90%近いと言われている。
落合のあたりで水量が一気に増えた神田川は*高田馬場の渓谷で勢いを増すのだ。
神田川から数百メートル離れた早稲田通り付近に住んでいたので、家が浸水したことは無い。しかし、神田川へ下る道が滝のように激流になっていたのが瞼に焼き付いている。
洪水のあとに祖母と商店街で買い物に行くと、八百屋さんや本屋のさんが洪水やら浸水の話をしていた。昔はココまで来た。とか、誰それの家は浸水が酷かった。とか。
今、考えると、「本当かな?」とも思うのだが、嘘か本当かは別にして、みな昔のことを懐かしんで話していたのだろう。その感覚、わかる。
いまもそんな界隈の記憶は鮮明だが、当時の人々はもう10年以上も前に他界してしまっている。
そして、本屋も八百屋も玩具屋もコンビニやスーパーに変わった。

神田川が氾濫しなくなったのはいつごろからだろうか?
明確な記憶が無い。
ただ、小学校高学年にはすでに、サイレンの音を聴かなくなったと思う。
おそらく、環七下に大規模な放水路が建設されてからか?
まぁそんなことはどうでも良い。
たぶん、僕らが暴れ川「神田川」を記憶する最後の世代なんだと感じる最近である。
*高田馬場の渓谷
山手線高架下あたりは神田川でも随一の急流となっている。しかも、山手線橋梁は明治の頃に作られたこともあり、非常に狭隘になっている。(明治の頃の水量は流域のコンクリ被覆率が低いので少なかったと思われる。)
さらにその山手線の築堤がダムの働きをするので、流域はいつも水浸しであった。渓谷になっているので、築堤を超えた下流も一気に流れが緩やかとなり被害があった模様。今は、新目白通りの下に放水路があるので、高田馬場渓谷付近で川が氾濫する事は無い。

池袋のフシギ [東京風景]
山手線が結ぶ繁華街のうち、池袋は突出して異色である。
鉄道が敷かれるとき、渋谷や新宿が街道筋で、すでに集落や宿場町が形成されていたのに対し池袋は何も無い原っぱであった。
今でも、渋谷区、新宿区はあるが、池袋区がない。
これだけとっても池袋が新しい街であることがわかる。(池袋は豊島区)(1)

(池袋駅、東口)
最初の山手線は品川-赤羽で作られた。
これに、今の山手線のルートとなる巣鴨、駒込方面への鉄道を作るとき、分岐駅に選定された事が池袋の運命を変えることとなった。
当時、街といえば目白、大塚、巣鴨である。
山手線をつくる際、遠回りしてまで池袋などという原っぱを通すメリットは無い。
しかし、山の手の地形が池袋にとって幸いした。
実際、山手線に乗ると、おそろしく起伏が激しいのがわかる。
高台を走っているかと思えば、数百メートルすすむだけで周りはすでに谷底になったりする。
台地を川と垂直に貫くのだから当然と言えば、当然かもしれない。
だから”山手線”という名前になっている。(2)
つまり、高台の切り通しとなっている目白駅をさらに開削し、巣鴨方面へ路線を建設することは明治の土木技術にとって、あまりにも難工事であった。
結局、目白の北にある原っぱに駅を建設し、分岐駅とした。
だから今も池袋駅付近は山手線にしては珍しく平地となっている。
そんな出生の駅だから、西武と東武ができてからも繁華街としての賑わいはいまひとつだったらしい。
そもそも、西武や東武も熱い思いを描いて池袋まで鉄道を引いたわけではない。

(大地の像、ルイ•デルプレ)
池袋が爆発的に賑わうようになったのは、戦後の混乱期からだとする説がある。
郊外まで路線を延ばした西武線や東上線に買い付け客が殺到した。
この街にマーケットができたのは必然であろう。
それから池袋の地位は確定した。
いまや、東京を代表する歓楽街となった池袋。
しかし、平成の今でも他の町とは異なった、気取らない空気がそこにある。

(今はなき人生横丁、戦後の闇市マーケットを色濃く繁栄する町並みがつい最近まで多く残っていた。)
1)渋谷は大山街道(現、国道246)、新宿は甲州街道(現、国道20)が通っており、すでの多くの人が住んでいた。(大山街道は東海道の短絡道だったので、かなりの往来があった、)
2)逆に、山手線沿線であり、中山道の宿場街であった板橋がまったく発展しなかったのは、板橋にとって不運だったかもしれない。ちなみに板橋は板橋区である。

緑色が計画されていた山手線。
池袋なんて予定になかったのだ。
鉄道が敷かれるとき、渋谷や新宿が街道筋で、すでに集落や宿場町が形成されていたのに対し池袋は何も無い原っぱであった。
今でも、渋谷区、新宿区はあるが、池袋区がない。
これだけとっても池袋が新しい街であることがわかる。(池袋は豊島区)(1)

最初の山手線は品川-赤羽で作られた。
これに、今の山手線のルートとなる巣鴨、駒込方面への鉄道を作るとき、分岐駅に選定された事が池袋の運命を変えることとなった。
当時、街といえば目白、大塚、巣鴨である。
山手線をつくる際、遠回りしてまで池袋などという原っぱを通すメリットは無い。
しかし、山の手の地形が池袋にとって幸いした。
実際、山手線に乗ると、おそろしく起伏が激しいのがわかる。
高台を走っているかと思えば、数百メートルすすむだけで周りはすでに谷底になったりする。
台地を川と垂直に貫くのだから当然と言えば、当然かもしれない。
だから”山手線”という名前になっている。(2)
つまり、高台の切り通しとなっている目白駅をさらに開削し、巣鴨方面へ路線を建設することは明治の土木技術にとって、あまりにも難工事であった。
結局、目白の北にある原っぱに駅を建設し、分岐駅とした。
だから今も池袋駅付近は山手線にしては珍しく平地となっている。
そんな出生の駅だから、西武と東武ができてからも繁華街としての賑わいはいまひとつだったらしい。
そもそも、西武や東武も熱い思いを描いて池袋まで鉄道を引いたわけではない。

池袋が爆発的に賑わうようになったのは、戦後の混乱期からだとする説がある。
郊外まで路線を延ばした西武線や東上線に買い付け客が殺到した。
この街にマーケットができたのは必然であろう。
それから池袋の地位は確定した。
いまや、東京を代表する歓楽街となった池袋。
しかし、平成の今でも他の町とは異なった、気取らない空気がそこにある。

1)渋谷は大山街道(現、国道246)、新宿は甲州街道(現、国道20)が通っており、すでの多くの人が住んでいた。(大山街道は東海道の短絡道だったので、かなりの往来があった、)
2)逆に、山手線沿線であり、中山道の宿場街であった板橋がまったく発展しなかったのは、板橋にとって不運だったかもしれない。ちなみに板橋は板橋区である。

緑色が計画されていた山手線。
池袋なんて予定になかったのだ。
池袋(1) [東京風景]
ぼくは1994年から1996年まで、池袋の予備校に通っていた。
当時は高校から自転車で鬼子母神を抜けて池袋まで通学。
その頃、雑司ヶ谷にはまだ街があった。
鬼子母神の電停を抜け、ケヤキ並木を通り、法明寺の境内を抜けて池袋へ通っていた。
ずっと昔の話だ。

(パルコ、池袋駅東口)

(ジュンク堂書店前から西武線ビックリガード方向)
東京において多くの繁華街は開発が進み街が様変わりした。
海外のいろんな都市を見てきたけれど、これだけ同じ顔をとどめない都市もめづらしい。
そんななか、池袋だけは例外。
山手線の数ある繁華街のなかで、池袋だけはゆったりと時間が進む。
事実、あまりかわっていない。
ただ、雑司ヶ谷は変わった。
地下鉄副都心線の開業、それに伴う再開発のもと、街は破壊され、人々は追い出され、古い家々、伝統ある街は壊された。
結果のこったのは、広大な空き地と高層マンション。
もっとも、僕らはこういう破壊には慣れている。
バブルのころは街ごとまるまる地上げて無くなった。
同級生は郊外へ追いやられ、あとには広大な駐車場。
日本経済の失速とともに、今なお空き地も少なくない。
都市の新陳代謝は残酷だ。

(夕暮れの雑司ヶ谷-鬼子母神界隈)
当時は高校から自転車で鬼子母神を抜けて池袋まで通学。
その頃、雑司ヶ谷にはまだ街があった。
鬼子母神の電停を抜け、ケヤキ並木を通り、法明寺の境内を抜けて池袋へ通っていた。
ずっと昔の話だ。


東京において多くの繁華街は開発が進み街が様変わりした。
海外のいろんな都市を見てきたけれど、これだけ同じ顔をとどめない都市もめづらしい。
そんななか、池袋だけは例外。
山手線の数ある繁華街のなかで、池袋だけはゆったりと時間が進む。
事実、あまりかわっていない。
ただ、雑司ヶ谷は変わった。
地下鉄副都心線の開業、それに伴う再開発のもと、街は破壊され、人々は追い出され、古い家々、伝統ある街は壊された。
結果のこったのは、広大な空き地と高層マンション。
もっとも、僕らはこういう破壊には慣れている。
バブルのころは街ごとまるまる地上げて無くなった。
同級生は郊外へ追いやられ、あとには広大な駐車場。
日本経済の失速とともに、今なお空き地も少なくない。
都市の新陳代謝は残酷だ。

(夕暮れの雑司ヶ谷-鬼子母神界隈)






